2021/10/19 (TUE)

台湾~アメリカ~日本、そしてオーストラリア 「異文化体験を語る」連続講演会7月編開催

OBJECTIVE.

コロナウイルス禍で海外への渡航もままならぬ中、学生のみなさんに遠く広い世界への夢と意思を持ち続けてもらうべく、社会学部専任教員がオムニバス形式でそれぞれの<世界体験>を披瀝する「異文化体験を語る」連続講演会(社会学部国際化推進委員会主催)は、7月は2度(第7~8回)にわたって昼休みにオンラインで行われた。

異文化の交差点—台湾、アメリカ、日本で生きてきた経験   第7回 林怡蕿教授

当日配信画像より

 7月2日第7回講演会は、メディア社会学科の林怡蕿教授が「異文化の交差点—台湾、アメリカ、日本で生きてきた体験」というタイトルで、三つの地での暮らしを通して、マジョリティとマイノリティ双方の経験や、多様な言語および社会的価値観の違いから触発された多文化主義への関心、そして今の日本での暮らしはまさに異文化体験の現在進行形であることを語った。

 講演ではまず、自らの出身地である台湾・台南という小さな町に存在する「家では閩南語、学校ではマンダリン」という二言語環境、成長過程において感じた女性=ジェンダーと社会階層のインターセクショナリティ問題、さらに学歴社会と受験戦争を語り、これらによってもたらされた閉塞感が、海外へ渡り異なる価値観に触れたいと欲する原動力であったと話した。大学時代に経験したアメリカへの一人留学渡航は、衝撃的な経験の連続であった。国籍も文化も言語も異なる人々が住まう男女混住の宿舎、授業では「silent minority」にならぬ「talkative majority」になるために饒舌になる練習を懸命にしたこと、アジアの若い女性へのステレオタイプと偏見への遭遇などから、我が身を守るためには自分の権利と意見を臆すことなく主張することが必要だと悟り、兎にも角にも「I think」が口癖のようになっていたことを語った。そして留学経験を終えて台湾の実家に戻ったとき、アウトドアレジャーとアメリカンフードのおかげで日に焼けてぽっちゃり体型になったことと、節約のために伸び放題となった長髪の姿に家族がドン引きしたエピソードも披露された。

 来日後については横浜中華街での暮らしと、「華僑・華人のメディア利用研究」のなどフィールドを通して日本という異国の中で更に「異国」として映る長崎、神戸、横浜中華街で感じた戸惑いと親近感からなる複層的な異文化体験を振り返った。自身に備わっていた「中華」の固定観念が一部塗り替えられたことをはじめ、古い価値観に違和感を持つ部分もあるが、それぞれをリスペクトしつつ、会話や理解の可能性を模索することの意味、さらに既存の枠を超える多種多様の文化が「ごちゃまぜになっているからこそ面白い」という見方が披露された。

 最後にこうした長年にわたる多文化的な体験は、個人の内面にある多様な、時には対立するアイデンティティに向き合うきっかけにも繋がったことが語られ、柔軟的な思考をもち、マイノリティーを経験することこそが社会と向き合う力を養うことにつながると締めくくった。

多文化コミュニティの寛容さと危うさ   第8回 水上徹男教授

1.黒人音楽の影響でハーレムへ
 高校生のころから、Rhythm and Bluesなどの黒人音楽の影響を受けて、その関連からマルコムX(Malcom X)などの黒人の活動家の本に親しむようになりました。その影響もあり、社会学部に進むことを考えていました。

 はじめての海外体験は大学3年の夏休みに行ったアメリカ合衆国です。3週間の大学生のためのツアーで、50人ぐらいの参加者がいたと思います。サンフランシスコに入り、ニューオリンズやラスベガスなど回って、ロサンゼルス、ハワイ、東京というツアーですが、私だけ中抜きで、サンフランシスコから一人でニューヨーク方面に行き、帰りのロサンゼルスで合流しました。黒人音楽、書籍、フォト・ジャーナリストなどの作品を通じて見聞きしていた、ニューヨークのスラム街を自分の目でみることができました。
2. はじめてのオーストラリア
 本日の本題のオーストラリアの話に入ります。立教大学社会学部社会学科を卒業後、会社員を経験してから、ブリスベンのGriffith 大学に留学、文化人類学を専攻しました。キャンパス自体が国立公園で、Possumsなど動物たちとのエンカウンターもありました。1980年代後半で、日本はまさにバブル時代、オーストラリアは新婚旅行先で一番人気になっていました。現地の新聞では、日本のことやオーストラリアへの企業の進出のニュースなどが、毎日1面をかざっていました。当時のオーストラリアは日本研究が盛んで、日本語学習熱も非常に高く、私のいた大学でも多くの学生が日本語を学習していました。

 政治面では、1988年に自由党の党首ジョン・ハワード(John Howard)氏が社会的緊密性を維持するためにアジア系移民の制限を訴え、多文化主義(Multiculturalism)に反対しています。後に「ハワード論争」と称されますが、人種差別的であるとの批判を受けて、予想に反して、1989年の連邦選挙で敗北しました。1983年からの労働党ボブ・ホーク(Bob Hawke)政権が続くことになったのですが、このあいだにいろいろな出来事がありました。

 1988年頃ドーキンス(Dawkins)氏の教育改革があり、留学生費が新たに導入されて留学生にとっては授業料が大きく値上がりとなったのです。授業料の値上げは、制度変更を伴っていたので、それ以前は現地の学生と同じような扱いでした。その意味は留学生が単位を落とすとフルタイムの学生資格を失い、留学を続けられなくなるシステムです。

 オーストラリアの夏休み、ほとんどの学生が帰省して閑散とした学生寮で、1989年1月7日の夕方、ニュースで昭和天皇の崩御を知りました。この時、国内世論を気にしたボブ・ホーク首相は、大喪の礼に行っていません。1989年6月4日には天安門事件がありました。この時ホーク氏は、オーストラリア国内で、デモに参加するなど、帰国してから身の危険に晒されることになる中国人に対して永住権を認めるなど移民政策が短期間で変わったのです。
3. 移民都市
 それ以前からオーストラリアは難民の受け入れについては、世界でもっとも数が多く、国連の調査では、1975年から1987年の間に15万人以上の難民が定着しています(国連難民高等弁務官事務所 (UNCHR) 1989年 『レフュジーズ』 11-12月 第21号)。当時約1,650万人の人口でしたので、人口109人に1人の難民が定着したことになります。その比率は世界でもっとも高く、2位のカナダが117人に1人です。アメリカ合衆国はこの時、24万6千人以上の難民が定着していますが、人口比では211人に対して1人となります(同書)。実際オーストラリアの大都市は移民や難民の受け入れ数が多く、第二次関大戦後の人口増加に移民が大きく貢献しています。1947年から1966年の戦後20年間の人口増加を見ますと、シドニーで842,463人の増加があり、そのうち自然増が約45パーセント、国内移動による増加が純増では0パーセント、海外からの移住者が55パーセント(463,413人)でした(Choi, C.Y. and I. H. Burnley. 1974. “Population components in the growth of cities.” In (ed.) I.H. Burnley, Urbanization in Australia: The Post-War Experience. Cambridge: Cambridge University Press,)。メルボルンでは、さらに比率が高く、同時期約889,198人の増加の内6割弱(522,111人)を海外からの移住者が占めました。まさに移民都市として成立しているのです。
4. 再留学
 ブリスベンからの帰国後、立教大学の助手として就職しましたが、再びオーストラリアへ留学することになり、1995年3月末からメルボルンのMonash大学の博士課程で、社会学を専攻しました。翌1996年3月に連邦選挙があり、先に紹介しました「ハワード論争」のジョン・ハワード氏が返り咲いて首相となり、財政再建のための教育改革を打ち出しました。専門領域によっては大学教員の待遇が悪化して、教員や学生による反対運動も行われました。私もMonash大学の仲間たちとホームページ、Australian Academic Dissentを立ち上げて、このままではオーストラリアの社会科学が衰退してしまうと、政権批判を展開しました。任期制大学教員の契約を打ち切られたという連絡が次々と入り、それらをホームページで紹介したことなどの反響で、Campus Newsという全国紙で私たちの活動が取り上げられました。Monash大学のキャンパスでは、いくつものテントが張られ、ストライキが行われており、馬に跨った騎馬隊が制圧にやってくるなど、大学の激動の時代でした。ハワード氏とは、その後メルボルン・カップ(Melbourne Cup:国民的行事になっているオーストラリアの競馬)のパドックで偶然遭遇しました。宿敵でしたが面識はありませんので、そのまますれ違った次第です。

 1998年8月31日明け方に博士論文を書き上げて、そのまま空港に向かい9月1日から国立兵庫教育大学での授業が始まりました。その後、当時の立教大学社会学部長白石先生からご連絡をいただきまして、2002年4月に社会学部現代文化学科と独立大学院異文化コミュニケーション研究科が創設時、2つの部局の専任として赴任することになったのです。
5. 立教大学で

オーストラリア元首相ボブ・ホーク氏の名誉博士授与式

 新設の学部と大学院で慌ただしく過ごしだした翌年、立教大学からボブ・ホーク元首相に名誉博士を授与することになり、総長室のお手伝いで、このイベント(2003年11月)を担当させていただきました。留学時代オーストラリアのニュースで何度も見たホーク元首相と立教大学でお会いできる機会に恵まれたこと、また帝国ホテルで何杯ものビールをご一緒させていただいたことは大変光栄でした。実際、ホーク政権時代に日豪交流が顕著に活発化して、姉妹都市交流の数が飛躍的に増加したり、経済交流だけでなく文化交流も進んでいます。帝国ホテルに滞在されているホーク氏を訪ねた時、ブッシュ(George Herbert Walker Bush)元大統領とお電話をされていました。その後レストランにご一緒する際、ホーク氏はウサーマ・ビン・ラーディン(Osama bin Laden)氏が亡くなると(2011年5月に殺害されましたが、2004年に死亡説が流れています)、テロが無秩序になるのでは、と危惧されていたことを覚えています。

 立教大学諸生徒礼拝堂で行われたホーク氏の記念講演は、社会学部研究紀要に掲載されています(『応用社会学研究』No.46, 2004)。太刀川記念館で行われたレセプションでは、応援団の演奏とエールを受けて感激したホーク氏が、私に自分も歌で返すからコーラスを演るように、と私の腕をつかんでステージに上がりました。大使館員数名と私がコーラスとして後ろに並び、ホーク氏はオーストラリアで有名な民謡、Waltzing Matildaを熱唱したのでした。

 オーストラリアと立教大学のかかわりにかんしては、社会学部主催のアンドリュー・マルカス(Andrew Markus)教授の講演会も2015年6月9日に太刀川記念館で開催されています。マルカス先生はオーストラリアの多文化主義の政策作成にかかわっており、関東社会学会の基調講演のため来日しました。学会講演とはトーンが異なっていて、自身が8歳の時ハンガリーからの難民としてオーストラリアに来たことはじまり、政府が多文化主義政策継続にかんして揺らぐたびに、オーストラリアにとってのブランドになっているものを、なぜ今捨てるのか、と継続を促してきたことなどをお話しされていました。寛容な社会で育つことができたから、今の自分があると、多文化主義の推進を使命としている方ならではの語りでした。実はこのマルカス先生は、私のMonash大学時代の恩師です。私が社会学部助手時代に、マルカス先生のご著書を読んで感銘を受け、調査のためメルボルンに行きますから博士論文のご指導をお願いします、と日本から手紙を書いて、押しかけ弟子になった経緯があったのです。何一つ恩返しはできていませんが、マルカス先生に立教大学でご講演いただいたことは意義深いことと思いますし、個人的には感謝と感動の講演会でした。

 異文化体験と言う内容ではなかったかも知れませんが、私の経験を紹介させていただきました。本日はお昼休みにお集まりいただき有難うございました。