社会学部メディア社会学科の井手口彰典教授にインタビュー

2023/05/14

教員

OVERVIEW

社会学部メディア社会学科の井手口彰典教授に、担当教科やゼミについて語っていただきました。

音楽は社会を見るひとつの「窓」。音楽の窓から多角的に社会をとらえる

童謡を研究することで見えてくる時代の常識

私が文学部の学生だったとき、専門的に学んでいたのは「音楽学」でした。「音楽学」とは世界各国の民族音楽や、ヨーロッパの音楽文化史などを研究し、それを通じて「音楽とは何か」を追求する学問です。それに対して今、私がメディア社会学科で担当している科目「音楽社会学」は、音楽をとり巻く社会に焦点をあてる学問です。その場合の音楽は社会を見るための一手段であり、ひとつの「窓」と言えます。たとえば世代と音楽、メディアと音楽、国家と音楽のように、音楽を通じて社会を見ていきます。

「音楽社会学」の講義では、私が2018年に発表した単著『童謡の百年』の内容を扱っています。童謡をひとつの事例としてとり上げながら、社会と音楽との関係を具体的に考えていくわけです。我々は普段、素朴に「童謡とは何か」と考えてしまいがちです。しかし「童謡とは何か」と問うことは、暗黙のうちに「この世界のどこかに、絶対的で普遍的な存在としての童謡が存在する」ことを前提にしてしまっています。ところが実際には「何が童謡なのか」は、時代や話者によってまちまちで、唯一絶対の「童謡」を定義することはできません。それぞれの時代のそれぞれの社会が、勝手に「童謡」なるイメージを構築し、語っているのです。

例えば大正中期、童謡は極めてモダンで異国情緒をたたえた西洋趣味の音楽とされることも少なくありませんでした。また、最初に童謡を発信したのは、一部のエリート層に支持されるような性格の雑誌でした。戦時中には、国威発揚のための戦時童謡・少国民歌が歌われていましたが、当時はそれも童謡だと思われていたのでしょうし、最近のアニメソングやNHK「みんなのうた」で流行った歌を童謡だと思う人もいるのかもしれません。この授業ではその時代・その社会で、童謡がどのようなものと考えられてきたのかを知ることで、「そのように考える社会」の変質をあぶり出していきます。つまり、私たちの「常識」が案外もろく、移ろうものであることを学生に伝えたいと考えています。

私自身は童謡の専門家ではありません。音楽を軸にしつつも、その時々に興味を持った題材を使いながら、社会と音楽の関係を考えています。たとえば博士論文を元にした『ネットワーク・ミュージッキング』(2009年)という本では、情報通信テクノロジーの発達が私たちの音楽聴取体験に及ぼす影響を論じています。また、同人イベントで売買される同人音楽についての著作もあります。

3年次は1万2000字を目指し「プレ卒論」から

テクノロジーを例に話をすると、音楽をめぐる状況は現在進行形でダイナミックに動いています。とくに2000年代には音楽ファイル共有ソフトが広まったり、携帯型デジタル音楽プレイヤーや、動画共有プラットフォームが出現したりしました。また2010年代の後半からは定額聴き放題のサブスクリプションが普及し、今ではそれが当たり前の時代になっています。加えて、短尺動画プラットフォームに代表されるような、音楽それ単体ではなく踊りやパフォーマンスなどと一体的に楽しむ仕組みも広がってきており、より多様な文脈の中に音楽が溶け出すようになっているのが現状だと思います。

私のゼミでは3年次の始めから、学生が独自のテーマを設定して論文を執筆する準備を行い、年次が終わる際には1万2000字の「プレ卒論」をまとめます。また平行して「音楽社会学」を研究するうえで必須となる理論を学んだり、各自で選択した学会誌論文を順次発表したりするなどの活動を行っています。

ゼミの特徴は、論文のテーマが多様なことです。正統派ロック、アイドル、K-POP、クラシックに関する研究はもちろん、珍しいところでは映画館でインド映画を観ながら、その場にいるお客さんが一体となって音楽に合わせて踊る「マサラ上映」を調べた学生などもいます。また、公園や広場などでラッパーが集まり円になってフリースタイルでラップし合う「サイファー」を調べるため、池袋西口公園に通った学生もいます。

ほかにも例えば若者のタバコ・アルコール離れを歌謡曲・ポップスの歌詞から調べたり、歌に出てくる主体の人称を調べたりするなど、着眼点や発想は学生によってさまざまです。主体の人称とは「私」「僕」などのことで、かつては1人称単数が多かったのに対し、最近では「私たち」「僕ら」のような1人称複数が増加傾向にある、という内容でした。そうした観点は社会学的にとても興味深いですね。

ゼミ生全員の知識を総動員する

集合知という言葉がありますが、ゼミではこの集合知を高めようと意識しています。私は大学の教員ではありますが、クラシック方面には詳しくても最先端の音楽を知識として網羅することは到底無理なわけです。ですから、アイドルやラップなど最先端の音楽については学生たちのほうが詳しいのです。

ゼミでは、15人ほどのゼミ生の知恵を総動員することができます。例えば、先日研究テーマについて相談に来た学生は「ポピュラーミュージックにおけるLGBT表現の研究をやりたい」とのことでしたが、さまざまなジャンルの中でよい具体例がないか、ほかのゼミ生に助けを求めてみると、やはりいくつも出てくるわけです。学生によっては「差別と偏見の社会学」や「ジェンダーの社会学」を受講しており、その中から関連するアイデアを出してくれたり、これが使えるのではないかと文献を紹介してくれたりもします。私が教員として学生に提示できる知識に限りがありますが、私が知り得ない情報を学生が提示してくれることでゼミ生全体の集合知が上がるわけです。それはとてもよい学びのスタイルだと思っています。

懐の深い社会学部で物事の見方を学ぶ

4年次になると、ゼミ生同士が互いのプレ卒論を読み合い、意見を交わします。多くの4年生は、プレ卒論をそのまま膨らませて充実した卒業論文へと仕上げていきます。3年・4年生合同で行う夏合宿では、関東近郊の温泉地などへ出かけていき、4年生が卒論の中間発表を行い、それに対して3年生がフレッシュな視点から意見を述べます。

ゼミの活動は、物事を多角的に見ることの大切さを学ぶ場でもあります。例えば円錐を横から見ると三角形ですが、真上か真下から見ると円形です。物事は、それを見る角度を変えることでガラッと別物になるということです。「みんなが見る角度」や「教科書にそう見ろと書いてある角度」からだけでは気づかない、物事にはさまざまな別の側面があります。「これってなんだろう?」と思った対象を、素朴に正面から見るだけではなく、斜めから見たり、後ろに回って見たりできるようになると世界の見え方は一変します。「こんな見方があったんだ!」という発見をぜひ、体感してほしいと思います。

そういった意味でも、立教大学社会学部は規模が大きく、学部だけで30名もの教員がそろっているのは凄いことだと思います。学生に対して「あの先生の話を聞いてごらん」と、さまざまな専門家を紹介でき、音楽の周辺も含めた学びをより深めることができます。また、やりたいことが定まらないという学生にとっても、社会学部は強いです。それぞれの興味関心に沿っていろいろな先生のもとで学べるメリットがあります。

私自身は、大学では文学部に入学し「音楽学」を選択しましたが、その後の修士課程で「音楽教育学」に進路変更しました。しかし学んでいくうちに自分のやりたいことと何かが違うなと感じ、また「音楽学」に戻りました。そして今、こうして社会学部で「音楽社会学」を教えています。そういう意味で言うと、私は迷走してきたわけです。しかし、迷走は悪くはありません。それによって人脈が広がり、継続的に交流を持つことで自分の研究をトータルで豊かにしてくれました。結果を残せる迷走なら、どんどんやるべきだと私は思います。

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