社会学部社会学科の石川良子教授にインタビュー
2025/04/11
教員
OVERVIEW
社会学部社会学科の石川良子教授に、担当教科やゼミについて語っていただきました。
フィールドワークは人生を豊かに耕し、よりよく生きるための方法
人生を生き抜くための方法を学ぶ「コミュニケーション論」
神奈川県出身の私が、縁もゆかりもない愛媛県松山市の大学に行き、教鞭をとってから10年半。そして昨年、大都会の立教大学社会学部へと赴任してきました。25年以上行ってきたライフワークは、引きこもりの研究です。
現在の担当科目は「コミュニケーション論」と「現代社会の解読」です。前者のコミュニケーション論のサブタイトルは「コミュニケーションとしての社会調査」で、フィールドワークについて講義しています。社会学の方法について学ぶだけではなく、人生を生き抜くための方法としてフィールドワークを位置づけています。他者を理解するとはどういうことか、どのように理解することができるのか、自分自身の〈ライフ〉=人生・暮らし・人間観や社会観などをいかに耕すことができるのか、といったことに考えを巡らせることを大切にしています。
前述のように、私自身が知らない土地へ行き、そこでどう生き抜くかを考えたとき、フィールドワークを暮らしの方法として取り入れることを思いつきました。毎日のおしゃべりもインタビューの練習なのだと思い、人脈を含めてフィールドを開拓していく中で人間的に深まりましたし、現場で出会ったさまざまな人たちに深めてもらったと実感しています。フィールドワークは人生・暮らしの方法として活かすことができます。
現在の担当科目は「コミュニケーション論」と「現代社会の解読」です。前者のコミュニケーション論のサブタイトルは「コミュニケーションとしての社会調査」で、フィールドワークについて講義しています。社会学の方法について学ぶだけではなく、人生を生き抜くための方法としてフィールドワークを位置づけています。他者を理解するとはどういうことか、どのように理解することができるのか、自分自身の〈ライフ〉=人生・暮らし・人間観や社会観などをいかに耕すことができるのか、といったことに考えを巡らせることを大切にしています。
前述のように、私自身が知らない土地へ行き、そこでどう生き抜くかを考えたとき、フィールドワークを暮らしの方法として取り入れることを思いつきました。毎日のおしゃべりもインタビューの練習なのだと思い、人脈を含めてフィールドを開拓していく中で人間的に深まりましたし、現場で出会ったさまざまな人たちに深めてもらったと実感しています。フィールドワークは人生・暮らしの方法として活かすことができます。
引きこもりのほかにストリップ劇場と高千穂神楽の調査・研究も
ですから授業では、私自身が、現在進行形で調査を行っているエピソードを豊富に紹介し、フィールドワークの実際をイメージしてもらえるように努めています。今は、ストリップ劇場と、宮崎県の高千穂神楽の調査を行っている最中です。ストリップ劇場の例で言うと、一般的には「男性の行く場所」「いかがわしい場所」などの既成概念でとらえると思います。しかし、現場に行くと少し様子は違います。来るお客さんはストリップを愛し、踊り子さんは誇りを持って職人的に仕事をしています。お客さんも温かく受け入れてくれますし、内側に入り込んでみると、そこには秩序や論理があることがわかります。そのようなことを、ライブ感を持って学生に伝えることに努めています。
後者の「現代社会の解読」のほうでは「『ひきこもり』の社会学」というテーマで講義しています。当事者の語りをもとに「ひきこもり」とはいかなる経験なのかを理解し、また、それを通して自分自身の人生・生き方、社会のあり方について考えることを目指しています。引きこもりは「社会問題」とされていますが、なぜ、どこが問題なのでしょうか?私は長い間の研究における「その人の人生はその人のものである」という視点から、「ひきこもり」を考えています。
後者の「現代社会の解読」のほうでは「『ひきこもり』の社会学」というテーマで講義しています。当事者の語りをもとに「ひきこもり」とはいかなる経験なのかを理解し、また、それを通して自分自身の人生・生き方、社会のあり方について考えることを目指しています。引きこもりは「社会問題」とされていますが、なぜ、どこが問題なのでしょうか?私は長い間の研究における「その人の人生はその人のものである」という視点から、「ひきこもり」を考えています。
他人のライフから自分のライフを見つめ直す「ライフストーリーの社会学」
そしてゼミは「ライフストーリーの社会学」をテーマに展開しています。座学で学ぶ授業に対して、こちらは実践的なフィールドワークです。さまざまな人々と出会い、彼らの生きた経験とその社会的背景を理解するとともに、自分自身の生=〈ライフ〉を見つめ直すことを目指しています。
3年次の夏休みに、愛媛県松野町で4泊5日の調査合宿を実施し、4年次はその経験を踏まえて個別調査を行い、卒論の完成を目指します。テーマは自由ですが、ただしフィールドワークは必須です。
ここでの肝は、ライフストーリーを語っていただく相手です。自分が惚れ込める語り手との出会いを引き寄せ、その人の〈ライフ〉をつかまえようと食らいついていく。いかに自らおもしろい人やコトに引っかかっていけるか。そういう姿勢や感性は、インタビュアーが生きてきた中で培われ、磨かれていくものです。スマホばかり見ていたのでは、それは捕まえられません。
そして、「よい語り手」に出会ったとき、何をどう聞くか、どう受けとるのかが大切です。話を聞く場所は、喫茶店や居酒屋ではないほうがいい。相手は単なる情報提供者ではないからです。その人が生きている現場に自分の身体を投げ込み、その人が生きる現場に触れて感じること、つまりフィールドワークの精神が大切です。それがあってこそ、その人が発する言葉を生き生きととらえることができると、私は思っています。それが自分自身の生=〈ライフ〉、および自らが生きている社会のあり方への洞察を深めることにつながっていくはずです。
私自身、学生との関わりを通して改めていろいろなことを教えてもらっているように思います。私が教えているのは学問的作法ですが、教える人と教えられる人という区別はなく、学生から思いがけない視点や考え方を聞いて勉強になることも多いのです。私のほうが育ててもらっているという感覚がありますね。
3年次の夏休みに、愛媛県松野町で4泊5日の調査合宿を実施し、4年次はその経験を踏まえて個別調査を行い、卒論の完成を目指します。テーマは自由ですが、ただしフィールドワークは必須です。
ここでの肝は、ライフストーリーを語っていただく相手です。自分が惚れ込める語り手との出会いを引き寄せ、その人の〈ライフ〉をつかまえようと食らいついていく。いかに自らおもしろい人やコトに引っかかっていけるか。そういう姿勢や感性は、インタビュアーが生きてきた中で培われ、磨かれていくものです。スマホばかり見ていたのでは、それは捕まえられません。
そして、「よい語り手」に出会ったとき、何をどう聞くか、どう受けとるのかが大切です。話を聞く場所は、喫茶店や居酒屋ではないほうがいい。相手は単なる情報提供者ではないからです。その人が生きている現場に自分の身体を投げ込み、その人が生きる現場に触れて感じること、つまりフィールドワークの精神が大切です。それがあってこそ、その人が発する言葉を生き生きととらえることができると、私は思っています。それが自分自身の生=〈ライフ〉、および自らが生きている社会のあり方への洞察を深めることにつながっていくはずです。
私自身、学生との関わりを通して改めていろいろなことを教えてもらっているように思います。私が教えているのは学問的作法ですが、教える人と教えられる人という区別はなく、学生から思いがけない視点や考え方を聞いて勉強になることも多いのです。私のほうが育ててもらっているという感覚がありますね。
社会学を学んで、物事をおもしろがれる人間になろう
社会学はよく「当たり前を疑う学問」だと言われます。けれど、私はその言い方が好きではありません。「疑う」ってなんだか性格が悪いみたいじゃないですか?社会学を学んでいると、確かに物事を斜めの角度から見るクセはつきますが。私なりに、社会学は「当たり前に突っ込みを入れる学問」と言いたいですね。当たり前のことに対して「どうして?どうして?」という突っ込みを入れることで、当たり前を違う見方で見てみる。そうすることで、それが輝いておもしろくなる。社会学を学ぶということは、物事をおもしろがれる人間になることだと思うのです。
また「社会学は何でもできる」とも、よく言われます。これは社会学が対象によって規定されるものではないからです。ゆえに「やりたいことがわからない」から、間口の広い社会学にたどり着いたという人もいるでしょう。すると私は、それなら「やりたくないことは何か」を見つけるところから始めてもいいんじゃない?と提案します。そこからさらに「自分の譲れないものは何?」「何にぐっとくる?」「何に萌える?」と突っ込みを入れます。「わかりません」という答えだったら「じゃあ、外に出かけてみて。きっと何かがあるよ」と言いますね。
これは「コミュニケーション論」でも繰り返し言っていることですが、自分の心がどう動くのかを観察してくださいと。自分がすでに何を知っていて、何に心惹かれているのか、自身を確かめ、自身と出会っていくこと、実はそれがフィールドワークなんだよねと。これが「自己理解」です。そして、理解できない相手と出会ったとき、どのようにしてそれを理解していくのか。他者理解、相手の視点に立つことができるかどうか。これも、社会学の学びですね。難しいですが、自己理解と他者理解は両輪で進んでいくものだと思います。
立教大学は、真面目な学生が多いですね。自分の立てた問いに自分で答えを出すのが学問・研究なので、唯一絶対の正解はありません。それでも「どこかにある正解」から外れることはしたくない、外れることが怖いと感じている学生もいるように見受けられます。また、タイパ・コスパ重視の風潮も関係しているかもしれません。だけど、それでは思いがけないものと出会い、世界を広げていくチャンスはつかめませんよね。せっかく大学にいるのに、それはあまりにもったいないです。
対象をどうとらえるか、という切り口が社会学の生命線です。立教大学の社会学部はそれぞれ切り口が違う学科が3つあり、スタッフの専門も非常に多様です。今はやりたいことがわからなくても、大学生活を通して必ず何かが見つかるはずで、それが見つかったときに、サポートしてくれるスタッフがそろっています。この恵まれた環境を存分に活かして、心からおもしろがれる人間になれるよう、自分を耕してほしいと願っています。
また「社会学は何でもできる」とも、よく言われます。これは社会学が対象によって規定されるものではないからです。ゆえに「やりたいことがわからない」から、間口の広い社会学にたどり着いたという人もいるでしょう。すると私は、それなら「やりたくないことは何か」を見つけるところから始めてもいいんじゃない?と提案します。そこからさらに「自分の譲れないものは何?」「何にぐっとくる?」「何に萌える?」と突っ込みを入れます。「わかりません」という答えだったら「じゃあ、外に出かけてみて。きっと何かがあるよ」と言いますね。
これは「コミュニケーション論」でも繰り返し言っていることですが、自分の心がどう動くのかを観察してくださいと。自分がすでに何を知っていて、何に心惹かれているのか、自身を確かめ、自身と出会っていくこと、実はそれがフィールドワークなんだよねと。これが「自己理解」です。そして、理解できない相手と出会ったとき、どのようにしてそれを理解していくのか。他者理解、相手の視点に立つことができるかどうか。これも、社会学の学びですね。難しいですが、自己理解と他者理解は両輪で進んでいくものだと思います。
立教大学は、真面目な学生が多いですね。自分の立てた問いに自分で答えを出すのが学問・研究なので、唯一絶対の正解はありません。それでも「どこかにある正解」から外れることはしたくない、外れることが怖いと感じている学生もいるように見受けられます。また、タイパ・コスパ重視の風潮も関係しているかもしれません。だけど、それでは思いがけないものと出会い、世界を広げていくチャンスはつかめませんよね。せっかく大学にいるのに、それはあまりにもったいないです。
対象をどうとらえるか、という切り口が社会学の生命線です。立教大学の社会学部はそれぞれ切り口が違う学科が3つあり、スタッフの専門も非常に多様です。今はやりたいことがわからなくても、大学生活を通して必ず何かが見つかるはずで、それが見つかったときに、サポートしてくれるスタッフがそろっています。この恵まれた環境を存分に活かして、心からおもしろがれる人間になれるよう、自分を耕してほしいと願っています。