社会学部メディア社会学科の木下浩一特任准教授にインタビュー
2025/04/17
教員
OVERVIEW
社会学部メディア社会学科の木下浩一特任准教授に、担当教科やゼミについて語っていただきました。
社会やジャーナリズムを知ることは、楽しく働き、楽しく生きること
頭と心に残して欲しい、1回限りの「メディア社会特殊講義」
私の経歴からお話をします。大学では電子工学を学びました。友達の影響でTV業界へ進み、関西の大手放送局の番組プロデューサー・ディレクター、映像エンジニアとして、さまざまな番組制作にかかわってきました。TV局を辞めてからはベンチャー企業を起こし、その後、大学院へ進みメディアについて学びました。専門学校の講師、大学での講演や非常勤講師、就活講師などを経験し、今、立教大学でこうして教えているのですから人生は面白いです。何があるかわからないですね。
担当教科は「メディア社会特殊講義(4)」です。「特殊講義」とは、内容は教員に100%任されます。そして、最新の研究に基づいて論じます。私はTV局出身ですが、講義では映像よりも「話す」ことにこだわります。「台本」はなくその場で言葉を紡ぎます。100分その場にいないと聞けない話をします。
私は講義では、パワーポイントをほとんど使いません。話の導入は例えば恋愛や友人関係など雑談のような話から始め、本題へとつなげます。私が座ってマイクを持ったまま、昔の哲学者のように話す。むしろその方が、学生たちの集中力は高まります。そして受講者とディスカッションを行い、最後に、私が独自に編集した動画をお見せします。すべては1回きり。2度と同じ話はしない、ライブであることが特徴です。「今ここ」にしかない1回性の持つ力を、ドイツ人哲学者ヴァルター・ベンヤミンはアウラ(オーラ)と呼びました。アウラを頭と心で感じながら、授業を楽しんでもらうように心がけています。これもメディア論ですね。
担当教科は「メディア社会特殊講義(4)」です。「特殊講義」とは、内容は教員に100%任されます。そして、最新の研究に基づいて論じます。私はTV局出身ですが、講義では映像よりも「話す」ことにこだわります。「台本」はなくその場で言葉を紡ぎます。100分その場にいないと聞けない話をします。
私は講義では、パワーポイントをほとんど使いません。話の導入は例えば恋愛や友人関係など雑談のような話から始め、本題へとつなげます。私が座ってマイクを持ったまま、昔の哲学者のように話す。むしろその方が、学生たちの集中力は高まります。そして受講者とディスカッションを行い、最後に、私が独自に編集した動画をお見せします。すべては1回きり。2度と同じ話はしない、ライブであることが特徴です。「今ここ」にしかない1回性の持つ力を、ドイツ人哲学者ヴァルター・ベンヤミンはアウラ(オーラ)と呼びました。アウラを頭と心で感じながら、授業を楽しんでもらうように心がけています。これもメディア論ですね。
社会を批判し社会を映し出すジャーナリズムについて
ゼミのテーマは「メディアとジャーナリズムの送り手」です。皆さんは日々、メディアに接しています。しかし送り手を意識することは少ないでしょう。メディアには必ず送り手が存在します。送り手とは、放送局や映画会社のプロデューサーやディレクター、新聞社の記者やカメラマン、出版社の編集者などを指します。
メディアを媒体とすれば、ジャーナリズムは思想です。ジャーナリズムは社会を批判すると同時に、社会を映し出します。ジャーナリズムを知ることは社会を知ることであり、社会を知るには、ジャーナリズムを知る必要があります。勉強が面白くないと思っている場合、それは社会との関わりが少ないからでしょう。学生の皆さんは、いずれ社会に出ますが、働くとは、社会と関わって対価を得ることです。社会に対する興味がないと、仕事は面白くなりません。楽しく働き楽しく生きるためにも、社会やジャーナリズムを知ることは有効です。
ゼミのテーマは自由です。基本はゼミ生が自らの報告内容をレジュメにまとめてプレゼンテーションをして、学生同士15人でディスカッションを行います。私は主催者ですが、参加者の一人として横で聞きながら当然、意見も言います。ゼミというのは、全員平等な立場。これが本来のゼミのスタイルですね。目からうろこの視点を発見したり、ときにはちゃぶ台をひっくり返して「そもそも」と話の原点に戻ったり。楽しく学ぶには自律性が必要です。自律性は、自由の中で生まれます。このような自由な雰囲気を大切にしています。
3年次に各自のテーマをじっくりと検討して計画を練り、4年次に調査・分析・執筆を行います。一人で悩む必要はありません。先輩を含めたゼミ生や私がいます。大いに悩み、大きく成長して欲しいと思っています。
メディアを媒体とすれば、ジャーナリズムは思想です。ジャーナリズムは社会を批判すると同時に、社会を映し出します。ジャーナリズムを知ることは社会を知ることであり、社会を知るには、ジャーナリズムを知る必要があります。勉強が面白くないと思っている場合、それは社会との関わりが少ないからでしょう。学生の皆さんは、いずれ社会に出ますが、働くとは、社会と関わって対価を得ることです。社会に対する興味がないと、仕事は面白くなりません。楽しく働き楽しく生きるためにも、社会やジャーナリズムを知ることは有効です。
ゼミのテーマは自由です。基本はゼミ生が自らの報告内容をレジュメにまとめてプレゼンテーションをして、学生同士15人でディスカッションを行います。私は主催者ですが、参加者の一人として横で聞きながら当然、意見も言います。ゼミというのは、全員平等な立場。これが本来のゼミのスタイルですね。目からうろこの視点を発見したり、ときにはちゃぶ台をひっくり返して「そもそも」と話の原点に戻ったり。楽しく学ぶには自律性が必要です。自律性は、自由の中で生まれます。このような自由な雰囲気を大切にしています。
3年次に各自のテーマをじっくりと検討して計画を練り、4年次に調査・分析・執筆を行います。一人で悩む必要はありません。先輩を含めたゼミ生や私がいます。大いに悩み、大きく成長して欲しいと思っています。
コンテンツは必ず形式を伴い「送り手」が発信する
私の専門領域をひとつあげるとすれば「メディア史」です。メディアとは形式です。多くの学生は「あの映画が面白い」「あのドラマは面白くなかった」というように、コンテンツに注意が向きがちです。そうではなく、例えば、映画とTVという形式を問う場合。映画館はお金を払って見ますが、地上波のTVは違う。映画館は暗い。でもTVを見る家は明るい。映画のスクリーンは大きい。ドルビーサウンドでしかもプロジェクションに投影している。しかしTVは画面が発光している。というような形式の違いがあります。形式に着目するのがメディア論なのです。
そしてコンテンツは必ず形式を伴い、形式を決定しているのが送り手なのです。今だとプラットフォーマーという言い方になりますが、実は送り手が作っているのはコンテンツと形式の両方です。それらをオーディエンスに届け、何らかの影響を与えています。周辺には制度や教育があるなど、それらのことを総合的に論じ、かつ歴史的に分析するのがメディア史です。
また、現在はメディアの形式が多様化・多次元化していると言われていますが、送り手に着目すると、アメリカの映画界では30年前からマルチプラットフォームで撮影されています。撮影現場においてカメラマンのビューファインダーにはあらかじめパナヴィジョン、DVD、TVサイズなど複数のマーカーがついていました。カメラマンは一度の撮影で、複数のプラットフォームに対応するフレームで、すべて絵が成立するように撮っていたのです。
ビジネスモデルでも同じことが言えます。映画は50年前から、ファーストランと呼ぶ封切上映した後に、地上波のネットワークへ売って、次はローカル局へ売り、さらに海外へという幾重にもお金を回収するシステムを昔から構築していました。送り手に着目すれば、新しいことのように思っていたことの多くが、もう何十年も前からやられていたことに気づきます。
メディア社会学科ですから、学生の多くが就職先として送り手企業を目指していると思います。しかし私は学生が「TV業界に行きたい」と言っても、すぐにOKとは言いません。「本気で目指すなら年間で100冊くらいは読書をしないとダメだよ」と言います。なぜかというと、コンテンツクリエーターというのは、結局ストーリーテーラーだからです。
映画も小説もSNSもすべてストーリーですよね。ストーリーをいかに紡ぐかは、国語の能力に支えられています。国語力の最初のステップは、やはり読むことです。何でもいいから大量に読まないとダメなのです。そうするとそのうち、食べたら出るのと同じで、出したくなりますから。まず大量に読んでから書く。書いたことをベースに話す。これらの技能はすべてつながっています。これができないとメディアの送り手にはなれません。そのうえで卒業論文を書けば、かなりの能力が身につきます。
そしてコンテンツは必ず形式を伴い、形式を決定しているのが送り手なのです。今だとプラットフォーマーという言い方になりますが、実は送り手が作っているのはコンテンツと形式の両方です。それらをオーディエンスに届け、何らかの影響を与えています。周辺には制度や教育があるなど、それらのことを総合的に論じ、かつ歴史的に分析するのがメディア史です。
また、現在はメディアの形式が多様化・多次元化していると言われていますが、送り手に着目すると、アメリカの映画界では30年前からマルチプラットフォームで撮影されています。撮影現場においてカメラマンのビューファインダーにはあらかじめパナヴィジョン、DVD、TVサイズなど複数のマーカーがついていました。カメラマンは一度の撮影で、複数のプラットフォームに対応するフレームで、すべて絵が成立するように撮っていたのです。
ビジネスモデルでも同じことが言えます。映画は50年前から、ファーストランと呼ぶ封切上映した後に、地上波のネットワークへ売って、次はローカル局へ売り、さらに海外へという幾重にもお金を回収するシステムを昔から構築していました。送り手に着目すれば、新しいことのように思っていたことの多くが、もう何十年も前からやられていたことに気づきます。
メディア社会学科ですから、学生の多くが就職先として送り手企業を目指していると思います。しかし私は学生が「TV業界に行きたい」と言っても、すぐにOKとは言いません。「本気で目指すなら年間で100冊くらいは読書をしないとダメだよ」と言います。なぜかというと、コンテンツクリエーターというのは、結局ストーリーテーラーだからです。
映画も小説もSNSもすべてストーリーですよね。ストーリーをいかに紡ぐかは、国語の能力に支えられています。国語力の最初のステップは、やはり読むことです。何でもいいから大量に読まないとダメなのです。そうするとそのうち、食べたら出るのと同じで、出したくなりますから。まず大量に読んでから書く。書いたことをベースに話す。これらの技能はすべてつながっています。これができないとメディアの送り手にはなれません。そのうえで卒業論文を書けば、かなりの能力が身につきます。
社会学とはメタ的・多元的視点を持ち、知的快感を味わう学問
メディアにかかわらず、社会学を学ぶと社会の見え方がガラッと一変します。目からうろこが落ちる体験です。つまりメタ的に、抽象的に物事を見る視点です。例えば、犬がいます。飼い主にとって犬は「家族」。ブリーダーにとっては「商材」です。世界のある地域の人たちからすると「食材」かもしれない。メタ的とは、外側の視点に立って、他の次元から物事を見る。同じ犬でもメタ的に見ると変わるということであり、この多元的な見方が、社会学のひとつの特徴です。
立教大学は、立地だけではなく、素晴らしい図書館など設備が整っていて環境は抜群です。教職員も素晴らしい。学生にとって今は、社会へとジャンプする前の「雌伏の時」かもしれません。今は苦しいかもしれません。価値があるものは手に入れるのが大変です。しかし、苦しい時期があるからこそ、その後の展開が待っています。映画など、ストーリーは必ずそうなっていますよね。
ちなみに悩んだときは、キャンパス内のチャペルへ行ってみてください。立教大学の素晴らしいところです。毎週金曜日にはパイプオルガンの演奏があり、聖歌隊に入っている学生たちもたくさんいて、教職員の方も学生も静謐な空間の中で思索を深めています。宗教に帰依するということでなくても、立教大学のチャペルは大きなコミュニケーションの場、友愛の場として機能しています。
社会学部は「社会」について考える場です。皆さんが目にしているモノやコトは、すべて社会の中にあります。社会学を学ぶ知的快感を、ぜひ味わってください。そしてメディアやジャーナリズムについて大いに考え、語り合いましょう。
立教大学は、立地だけではなく、素晴らしい図書館など設備が整っていて環境は抜群です。教職員も素晴らしい。学生にとって今は、社会へとジャンプする前の「雌伏の時」かもしれません。今は苦しいかもしれません。価値があるものは手に入れるのが大変です。しかし、苦しい時期があるからこそ、その後の展開が待っています。映画など、ストーリーは必ずそうなっていますよね。
ちなみに悩んだときは、キャンパス内のチャペルへ行ってみてください。立教大学の素晴らしいところです。毎週金曜日にはパイプオルガンの演奏があり、聖歌隊に入っている学生たちもたくさんいて、教職員の方も学生も静謐な空間の中で思索を深めています。宗教に帰依するということでなくても、立教大学のチャペルは大きなコミュニケーションの場、友愛の場として機能しています。
社会学部は「社会」について考える場です。皆さんが目にしているモノやコトは、すべて社会の中にあります。社会学を学ぶ知的快感を、ぜひ味わってください。そしてメディアやジャーナリズムについて大いに考え、語り合いましょう。